幸せになりたい

僕もそう思う。みんなそうだろう。でも固執すべきではないと考えている。

幸せというのは長くは続かない。何かを手に入れて幸せを感じていたのに、しばらくするとそれが当たり前の状態になり、また別の何かが欲しくなる。また不満や問題についても同様である。頭を悩ませていた不満が解決(あるいは逃避)して、安堵や解放感を味わうが、すぐにまた別の不満が生じる。新たに生まれたというよりは、今まで気にも留めなかったことに対して、不満を感じるようになる。

これらはポジティブな言い方をすれば、向上心や問題意識を常に持ち、絶えず改善していく姿勢だ。個人の確固たる意志があって改善を続けていくのならそれも良いと思うが、どちらかというと”人間”の構造によって上記のような心理になるのではないかと考えている。もし何かを手に入れた幸福感が永遠に持続するならば、現状に満足して進化がそこで止まってしまう。進化のご褒美として幸福感は与えるが、あくまで一時的なものとすることで更なる進化を促している。そう思えてならない。

でもコレって何かに似ている。興味本位でタダでもらった麻薬を少量試してみる。とても心地いい。もっと欲しい。お金を払ってでも。だんだん少量では足りなくなる。もっと多く。もっと質の良いものを。気がついたら立派なシャブ中。ガンギマリ。ヤクの売人の常套手段にソックリではないか(あくまで妄想で書いてます。タバコすら吸わない僕です)。脳内麻薬という言葉があるが、幸福感にこそピッタリな言葉に思える。「幸せになりたい」という乙女ちっくな言葉の裏に潜む危険を感じずにはいられない。

世の中にはいろいろな欲望があって、食欲や性欲といった低レベルのものから、知識欲のような人間らしいもの。ただどんな欲望の先にも幸福感というアメがあって(あるように思えて)、その甘さが行動のエネルギーになっている(だから運動には「糖」が必要。これは関係ないか)。欲望→行動→幸福(やがて消滅)→新たな欲望というサイクルによって、人類はここまで進化したのではないか説。でも僕には呪いのように感じる。僕らはいつまで経っても満たされることはなく常に飢え乾いている。

まとめ。幸せの追求は一見自分のために行っているように見えて、人類という種のための行動である。そして自分の意思で行っているのではなく、体の構造によってそういう思考に誘導されている、いわば操られている状態ではないか?幸福追求の耐久レース。リタイアはしないがペースを落として周回しようと思う。欲望は抑えて不満を許容する。その一種の諦めこそが、僕という個人の意志であり、自分の人生を生きるということだと思う。吾唯足知。

とはいえ自分自身をも敵に回す生き方はすごく大変。こういう構造で生まれてしまったのだから、舌に合う食事をして、耳に合う音を聞く。構造に適した行動をとって幸福感を享受する。これもまた諦めだろう。踊らされているという自覚を持って適度にダンスを楽しめばいいじゃない。ギブアンドテイクで上手く付き合っていきましょう。

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